本田宗一郎 成功する世界企業の作り方

本田宗一郎(ほんだそういちろう)は、世界に誇る日本の自動車メーカーHONDAの創業者です。Panasonicの創業者松下幸之助と並んで、彼もまた一代で世界規模の事業を作り上げたビジネス上の大成功者。HONDAは、二輪から始まり、今や四輪においても世界の自動車市場で確固たる地位を築いた自動車ブランドです。

ここでは、世界のHONDAを生んだ本田宗一郎の仕事観と人生観に焦点をあてます。彼がいかにして世界的なブランドを作り上げたか、そのプロセスを一緒に学びましょう。

本田宗一郎 成功する世界企業の作り方

 

本田宗一郎のプロフィール


本田宗一郎は、1906年、明治39年生まれです。現在の静岡県浜松市の出身で、父親は鍜治屋を営んでいたそうです。
小さな頃から機械や乗り物に関心が強かったようで、13歳の時に自ら自動車修理工「アート商会」に丁稚奉公に入ります。好きこそものの上手なれの言葉通り、彼は修理工として順調に成長していきます。アート商会からのれん分けを受けて営業をしたのち、31歳の時自動車用のピストンなどの製造メーカー「東海精機重工業」の社長に就任します。
そのピストンの製造を通して、基礎知識の重要さも認識することとなり、途中、浜松工業高等学校(現在の静岡大学)の聴講生となり、約3年間にわたって金属に関する勉強をしています。
その後、東海精機の株式を46万円でトヨタに売却します。その後、1年ほど何もしない時間を過ごし、自分の本当にやりたいことを原動機付き自転車の製造に見出し、1946年に本田技研研究所、1947年に本田技研工業を設立します。この時、本田宗一郎40歳。
その後、1949年に、のちのHONDAの副社長となる藤沢武夫と運命的な出会いを果たし、HONDAは急成長、世界のHONDAへと変貌を遂げる道を歩み始めます。
そして、1983年に経営の一線から退き、最高顧問になりました。
1991年8月に85歳で亡くなっていますが、その葬儀には世界から多くの弔問客が訪れ、その中には泣きじゃくる故アイルトン・セナの姿もありました。

 

技術で人を幸せにするというビジョン


本田宗一郎の人間のタイプは、典型的な技術屋だったようです。とにかく凝り性で、良いものを作るためには一切の妥協を許しませんでした。
一般的に、製品製造には「歩止まり」という考え方がつきもので、100%完全な製品は不可能であるため、いかにその不良品発生確率を少なくするか、という追求をすることになるわけですが、その不良品の確率が1%だったとしても、彼にとってはその1%が許し難かったようです。
「作り手にとってみれば、99対1かもしれないけれど、その1%の商品を買ったお客様にとってみれば、不良品100%だろう」と。まさに正論としか言えませんね。
そして、ものづくりは最終的に、製品が優れているか、お客様にとって使いやすいか、役に立つか、それが全てであると言い切っています。
それができなければメーカーとしての存在価値はないという訳です。彼は、技術屋としてより優れた技術の追求をし続けた人ですが、その向こうには「使う人」つまりユーザーとしてのお客様を見ていました。
現在で言うところの顧客志向やカスタマーサティスファクションという言葉が示す概念ですが、技術力追求を使命とするエンジニアでありながら、マーケティング的なスピリットの上に成り立っていたと言えそうです。
いわゆる技術職の方の中には「俺は作る人。お前は売る人」のようなマインドの方も比較的多い中、彼の基本的なスタンスもやはり創業者として非凡だったようです。

 

人を魅了するリーダーシップ


彼の経営手法の大きな特徴の一つは、圧倒的に人を大切にするということです。大切にするとは、優しく接するというような意味ではありません。むしろ、その点は、当時としても厳しい会社だったのではないかと想像します。彼が大切にしたのは、働く人の人間性やマインドセット、そしてチームワークです。
彼は、自身がエンジニアではありましたが、基本的にチームワークを重視しました。一人ではなく、あくまで仲間と作ることが彼にとっては重要だったようです。そのチームワークの考え方も、なるべく自分とは違う発想の人間を重用したようです。同じ人間が複数いても意味はない、違うからこそ意味があるのだと。目指すものが同じであれば、性格など違う方が良いと考えていたようです。
その発想が、典型的に表れたのは藤沢武夫との出会いです。本田宗一郎は、販売や営業といったことが全く苦手で、自分には向いていないということを自認していました。それゆえ、同じ目標を持って、その部分を担ってくれる人間として藤沢武夫が登場したことで、本田が快進撃を始める基礎となった最強のコンビネーションが生まれたわけです。
さらに、本田宗一郎は、イヤなことほど率先してやるという気概を持ったリーダーでした。また、仕事をする上では、それぞれの従業員の理解と納得がなければ良い仕事はできないという信念を持っていました。自分たちのリーダーがそのような人だったら、どうでしょう? とても心強く、そして誇らしく思うのではないでしょうか?
HONDAは製造会社なので、この会社が成長してきたもっとも大きな原動力は何かといえば、「技術力」ということになるかもしれません。しかし、どんなアイデアも技術の種も、それを活かす環境がなければ何も生まれません。
HONDAには、技術を育てる環境があったことは間違いありません。そして、それは創業者のスピリットが元となり、培われたものなのです。

 

本田宗一郎の人生観


製造メーカーは、その製品の品質がブランド力の基本になります。便利であること、使い勝手が良いこと、デザインが良いこと、価格が妥当であること、などなど。HONDAの二輪車や四輪車もしかりで、いろいろなポイントで総合的にユーザーから高い評価を受け続けた結果、今のHONDAの地位があります。
このブランド力の形成には、創業者本田宗一郎の人間性も大きく影響していたものと思われます。
彼は、物についても人についても、信用というものの重要さを強く意識していたようです。
まず、どのような状況になっても絶対に嘘をついてはいけない。そして、言いくるめやごまかしは大嫌いだったと言います。メーカーの純粋たる正義は、そもそもはすべては顧客のためであり、そこに誇りを持たなければならない、というのが彼の信念でした。
そこには、自分たちが作りたいものではなく、世の中が必要としているものを作ることがメーカーとしてのミッションであるという企業姿勢が伺えます。
彼は、仕事にとってももっとも必要なことは、金でも機械でもなく、弾力性のある見方、考え方、アイデアである、という主義でした。
そして、何よりも新たな発想や考えを、実際にやってみることに非常に重きをおきました。実際に、トライするところに人は感動を覚えるのだと。そして、その積極的な姿勢の結果失敗したのなら、それは非常に歓迎すべきことだという考えを持っていました。
彼にとっては、失敗は成功のためのステップでしかなく、実際に失敗には大きな価値があると思っていたようです。
ただし、その失敗はあくまで積極的なチャレンジの結果であることが前提で、かつ失敗をしたら落ち込んでいる場合ではなく、すぐにその原因と結果の追求をするべきだとしています。
また一方で、成功をした時もシビアに対応をしたようで、その成功を単なる偶然にしないためにも、それがうまくいった理由を失敗した時以上に研究したと言います。
この、妥協を許さない物作りのスピリットが、浜松の一原動機付自転車メーカーを「世界のHONDA」に変貌させたことは間違いありません。

まとめ

いかがでしたでしょうか、世界のHONDAを作った本田宗一郎の物作りにかける思いと、人に対する考え方。まるで、経営の教科書を読んでいるような気にもなります。
そして、彼が残した言葉に彼の人間性が表れています。
「金儲けが財産だと思っていたけど、結局、友達こそ本当の財産なんだな」
当時一緒に仕事をした人は大変だったはずですが、やはり人間味に溢れる人物であったことは想像に難くありません。

以上、本田宗一郎 成功する世界企業の作り方でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。