日本円史上初の紙幣肖像画・神功皇后

神功皇后一円明治4(1871)年7月、日本初の肖像画付紙幣が流通し始めました。そこに描かれていたのは、古墳時代に大活躍した神功皇后陛下です。100年に渡る強靭な生き様を学べば、みなさまのビジネスや学業などに良き刺激が与えられるはず。現代に生きる私たちへの「勇気」、神功皇后陛下から受け取りましょう。

1.天皇家には世界がひれ伏すほどの格式がある

神功皇后陛下のお出ましとお隠れ

  • 生誕:成務40(170)年
  • 崩御:神功69年(269)年4月17日
  • 生誕地:一説によると近江国近江町息長(現・滋賀県米原市)
  • 御子息:応神天皇(御名:ホムダワケ)

皇統連綿と2000有余年、男系天皇をかたくなに守り通してきた日本の天皇制は世界中を見回しても比肩できないほどの歴史があります。なかでも神功皇后は、謎の多い皇后陛下でした。古事記と日本書紀、あるいは朝鮮側の記録を紐解くと、あまりに多過ぎる仮説や俗説が散乱している観があります。また立場によって話も随分変わります。ここでは神功皇后から派生する神、人々、物事をシンプルにまとめていきます。
まずは以下に、天皇陛下の普遍的な立場が理解しやすいものを用意しました。有名な動画ですが、改めて天皇家の御稜威(みいづ=天皇や神などの威光)に触れてから、ここでの主役・神功皇后についてまとめをご覧ください。

⇒ http://youtu.be/lsOFxj9To-o

 


 

2.名君・応神天皇の母である<神功皇后>

日本書紀によると、神功皇后の御名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、父は開化天皇玄孫である息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)、母は天之日矛(アメノヒボコ=文献に伝えられる朝鮮半島の一国・新羅の王子の流れを汲む一族である葛城氏)出自の葛城高ぬか姫です。
神功皇后に御子は少なく、二人しかありませんでした。筆頭に来る御子は『実在性が極めて濃厚な天皇』の第一人目とされる名君・応神天皇(209~310年)で、もう一人は誉屋別皇子がいますが、弟姫の子息であるため、関係性は非常に希薄です。なぜなら皇后は仲哀天皇との間で、普通に妊娠したのではないからです。
応神皇子誕生については、仲哀天皇と御成婚前に神の経綸(けいりん=ご計画)で、住吉大神の神魂(かむたま)が純潔の処女であった気長足姫尊に神の子としての霊質を宿らせ、懐妊させたという事実があります。神霊は決してお化けとか幽霊というようなものとは一線を画していることをきっちり知ることが大切です。

 


 

3.世界中にある母子神信仰と聖母伝説

母子神信仰でまず真っ先に思いつくのはアヴェ・マリアとイエス・キリスト。新旧キリスト教のみならず、カトリック、ロシア正教などの東方正教は聖母マリア信仰を生み、国家によってはイエスよりもマリア様に人気が集中しているところは珍しくありません。母子像に宿る聖なる力で、子育ての力を増幅させ、それを祭祀の対象とする慈愛に基づく信仰です。日本でも古くから鬼子母神信仰があり、子育て地蔵(子安地蔵)、慈(悲)母観音の信仰なども根強い人気があります。東京でもレトロな都電荒川線に乗れば鬼子母神まで連れて行ってくれます。
神功皇后はそういう意味では皇室という非常に高水準なレベルで、子を思う母の慈悲深さを体に顕し、この話を聞く人聞く人に感動を与え、そしてそれらの人の心をクリーンアップしてくださいます。「神様の霊質は多かれ少なかれ、どんな子どもにも与えられている」とも言われます。だからこそ、おさな子の純真無垢さや満面の笑顔は、大人の心の曇りを払拭するのでしょう。

 


 

4.仲哀天皇と御成婚「神功皇后陛下、正式に誕生!」

仲哀天皇陛下のお出ましとお隠れ

  • 生誕:成務19年
  • 崩御:仲哀9年年4月17日
  • 生誕地:【志賀高穴穂宮】しがのたかあなほ‐の‐みや(現・滋賀県大津市坂本穴生(あのう)町)

・御名は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)

よく歴史家や歴史好きな人が返答に窮する問いとして「仲哀天皇と神功皇后の夫婦関係はどうだったのですか?」という鋭い質問があります。極論をいう人に至っては「二人共歴史上、実在した人物ではないから、良いも悪いもないでしょう」とここまで書いてきたことを根底から覆す人さえいます。これは確かに難問です。
ですが、辻褄合わせとか、改ざんとかそういうレベルで歴史を断じても何もいいことはありません。たった今も結果が出ないということは、やはりお二人は実在の両陛下だったのだと考えた方がロマンがあります。無論、ロマンだけでなく「語り継がれている」という事実がさらに歴史を強化し、正当性のあるものにしていくのです。まさにそれが人の叡智です。

 


 

5.「神が朝鮮攻略を示唆」信じぬ仲哀陛下の悲劇

この時期盛んに反乱を起こしていたのは九州南部を支配する<熊襲(くまそ)>と呼ばれる武装勢力で、頻繁に天皇家に反旗を翻していました。繊細な天皇陛下より、超能力を有しシャーマンでもあった武闘派の皇后による政略の方が良いことは、家臣、軍人に至るまで判っていました。
ムキになっていた天皇は現・福岡市の橿日宮(かしひのみや、香椎)に皇后共々遷り、群臣に熊襲退治の会議をしようとした矢先、神功皇后に何らかの神が乗り移り、天皇を叱責し始めました。「何故国内の些細な反乱にいつまでもこだわっているのか!? むしろ目を朝鮮に転ずるべきだ。私を無礼なく丁重に祭れば、新羅(しらぎ)は簡単に手中に入る」
この言葉を聞いて怒った仲哀天皇は「私は万物万象全てを祭っている、そちは稲荷か? まともな神ではないな!?」
神はその失礼な言葉に怒り、叫んだ。「だいたいこの国土は汝(なんじ)が統治できる国ではない、死の国の道へ向かえ!」
仲哀天皇はこうして天誅に遭い、瞬殺されます。

 


 

6.神の子を胎内に宿し、三韓征伐に向かう神功皇后

処女受胎を行った住吉大神から、神功皇后に重要なアドバイスが伝えられました。三韓(任那日本府を除く、新羅、百済、高句麗)の一、新羅を攻めよというものです。南朝鮮上陸のため玄界灘を渡る際は、腹部に鎮懐石と月延石を当てサラシを巻き、冷やすことで出産を遅延させる対策を打ちました。
住吉大神とは祭神に第一本宮は底筒男命、第二本宮は中筒男命、第三本宮は表筒男命、そして現在では第四本宮に神功皇后(息長足姫命)が祀られています。現在は大阪市住吉区に鎮座しています。この時の戦も住吉三神がスクラムを組み、渡海に関して強烈な守護能力を発揮しました。そのため神功皇后並びに日本軍は、日本列島と朝鮮半島の間を順風満帆に移動できたのです。
日本軍上陸後、逃げまとう新羅軍。戦わずにしてあっという間に降伏、ドミノ倒しのように百済、高句麗も今後は日本に対して朝貢(ちょうこう=来朝して貢ぎ物を奉る)を欠かさないことを確約。ほとんど戦うことなく、神功皇后の御姿が日本の完璧な圧勝を導きだしました。

あとがき

神功皇后の戦ぶりを書いていると、これより遥か後に戦国最強軍団総帥・武田信玄公の如き軍勢の強さを感じます。信玄公の軍勢は女武者を上手に使って敵陣を乱すのに有効でしたが、神功皇后はマントラを唱えながら、神のアウルを背に大軍勢が整然と襲撃してくる…朝鮮人たちには恐ろしくも、美しい光景であったことでしょう。

以上、『日本史上初の紙幣肖像画・神功皇后』でした。お読み頂き、有難うございました。

参考文献

  • 「日本の紙幣」(山口和雄著)保育社
  • 「古事記・日本書紀を歩く」(林豊著)JTB
  • 「パワースポットDB」http;//WWW.powerspotdb.JP
  • 「住吉大神と住吉大社」http:www.k3.dion.ne.jp