岩倉具視  旧500円札の肖像画人物、その業績の光と陰

岩倉具視

維新当時から活躍した岩倉具視(いわくらともみ)、そして旧500円札の肖像画にも選ばれた彼は、どのような人物なのか。岩倉の場合、個人的出来事よりむしろ、政治の中の彼から、彼の人物像を知ることができるだろう。
今回、岩倉具視の人物像に触れ、当時の政治情勢を感じていただければ幸いです。

岩倉具視 旧500円札の肖像画人物、その業績の光と陰

 

1.生い立ち

  • 生誕:1825年10月26日(水曜日)※文政8年9月15日
  • 没日:1883年7月20日(金曜日)※明治16年
  • 出生地:京都府

岩倉具視は、文政8年9月15日、京都の公卿、つまり公家の堀河家に生まれた。堀河康親(やすちか)の第2子である。堀河家は、家領は180石、下級の公家である。幼少期の名は周丸(かねまる)。14才の時、岩倉具慶の養子となった。

周丸が養子になるいきさつを紹介しょう。 周丸が明経家・伏原宣明の下で学業をしていた頃、友人に『春秋左氏伝』の輪講などやめて、将棋をしようと駒を出した。すると、友人は、とんでもない、無用の遊戯など、どうしてできるかと非難した。すると周丸は、「春秋の一部の大意は、だいたいわかった。だから、そんな古文の字句の詮索をするより、将棋をさして互いに知略を磨いたほうがいいではないか」といった。 この話を聞いた宣明は、必ず将来相当の人物となるだろうと思い、親しかった岩倉に養子にもらえとすすめたのである。

 

2.業績

岩倉具視は、維新前夜から明治時代を通して、政治の中枢で活躍する。
まず考えられる出来事は、安政5年の政変である。すなわち、アメリカとの通商条約調印をめぐる勅許問題で、朝廷と幕府とが衝突する。いうなれば、江戸の武家と京都の公家の対立である。

通常、通商条約の場合、徳川政権がその外交主権で交渉し、調印することができた。
しかし、朝廷の承認が必要であると言いだし、政治問題化した。朝廷は、幕府に白紙委任していたら、天下の人望も失い、朝運武運とも衰退すると考え、幕府側の関白の家へ押しかけるというデモを行った。いわゆる、公家の88人の列参だ。
これを企画したのが、具視だといわれている。 岩倉は公家の立場から、幕末期に調整役として活動する。新たな徳川家が政権を取らないように、諸藩を調整している。
つまり、「公武合体」という形式をもって、天皇を中心とした「王政復古」を考慮して、政治を行ったといえる。 岩倉の思想は明治憲法にも現れている。公家出身の岩倉は、天皇の権限が大きい憲法論を主張したのに対して、木戸孝允の憲法論は天皇を国政統合の機関として考えていた。岩倉には、公家ゆえの保守性があったのだろうか。

 

3.岩倉具視の明暗

岩倉は明治元年(1868)、三条実美とともに議定兼副総裁となった。明治政府が薩長勢力の手に帰して、三条、岩倉が政府の中心人物となる。

ここでは憲法に関して、岩倉がどのような立場なのかを考えたい。当時、アメリカをはじめ、西欧諸国と伍するためにも、憲法を制定して近代国家になる必要があった。そこで、どのような憲法にするのかという問題が起こった。岩倉は多くの政治意見書を残している。例えば、「政体建定」には、彼の国体論や政体論が記されている。国体論とは天皇から見た国の在り方であり、政体論とは政治制度と考えていいだろう。
当時、憲法の制定のために、西欧から学ぶことは、当然であった。憲法に議会制や立憲制を導入する考えの木戸孝允などがいる。しかし、岩倉はあくまで、天皇親政の体制を目指していた。岩倉にとって「天皇」の権力は、無限絶対のものでなければならなかった。ここに岩倉政治の限界を見ることができるだろう。
結局、岩倉は天皇大権を認める欽定憲法、つまり天皇の意思が大きく反映される憲法を制定することに成功する。しかし、この天皇大権は、のちに大いに利用され、戦争へと突入するきっかけにもなった。

 

4.岩倉具視にまつわる言葉

ここでは岩倉本人、あるいは周辺にいた人物が彼について述べた言葉を挙げ、それに解説を付したい。

  1. 「この児は麒麟児(きりんじ)だ」。
  2. 今はとて思ひ切れども黒髪の乱れてすぢ条も分かれざりけり
  3. 「伊藤はいまの時代の人物として随一な方で、将来は必ず国の柱石となる人です。だから末ながく伊藤参議を助けて政治上の奮闘をなされたい」。

1.は少年の頃の先生、伏原宣明の言葉。麒麟児とは天才児のことであり、伏原が具視をこのように思い、岩倉具慶に養子をすすめたのである。
2.は文久2年、尊攘派が社会で活躍した時期、岩倉の公武合体派は不利な社会状況になる。そして彼は近習を辞し、落飾すなわち、髪を剃り落として仏門へ入り、「岩倉入道」となる。この時の歌である。
3.は伊藤博文の渡欧の際の発言である。岩倉は伊藤を横浜港まで見送った。そのとき随員の西園寺公望に対して述べた、遺言の一部である。

 

5.オススメの動画

「その時歴史が動いた 岩倉具視 欧米使節団」
https://www.youtube.com/watch?v=ZlBtz2DTlwc

あとがき

ここまでの長文をお読み下さり、ありがとうございます。

岩倉具視には生涯を通して、王政復古や皇室のための思想が一貫してあります。それゆえに限界もあったのでしょう。
同じ時代を生き、改姓をすすめた板垣退助と確執ののち、決別してしまうなど、そのやり方には狡猾さも感じられます。
現代に生きる私達は、日本人ひとりひとりのために、さらに世界の人々のための政治家を育てるべきだと思います。

以上、
「岩倉具視 旧500円札の肖像画人物、その業績の光と陰」でした。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。