伊藤博文 旧1000円札肖像画人物の偉大すぎる功績、名言

伊藤博文
伊藤博文といえば、アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として知られています。
そんな旧1000円札の肖像にもなった伊藤博文とは、一体どのような人物であったのでしょうか。


伊藤博文 旧1000円札肖像画人物の偉業と名言

 

1.伊藤博文の生い立ち

  • 生誕:1841年9月2日(天保12年)
  • 没日:1909年10月26日(明治42年)
  • 出生地: 周防国熊毛郡束荷村(現:山口県)

伊藤博文は、1841年天保12年に周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県大和町)に長男として生を受けます。
9歳の時に萩に移り、安政4年17歳の時に松下村塾に入門。その後、松下塾で、出会った木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞らと同志となります。

1862年(文久2年)

久坂とともに公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺、品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ちにするなど、尊皇攘夷の志士として活躍。
明治維新後は1867年(明治元年)に兵庫県知事となり、その後は新政府の中枢で活躍を続けました。

1885年(明治18年)

初代内閣総理大臣となり、以後、第5代・第7代・第10代と4次にわたり内閣総理大臣として内閣を組閣。
その間、大日本帝国憲法制定の起草・主導的役割を果たし、初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長など数々の要職を歴任します。
また、立憲政友会を結成し初代総裁を務めるなどもしていました。

1909年(明治42年)

10月26日、極東問題で赴いた満州ハルビン駅で、安重根に暗殺されます。(享年69歳)

 

2.伊藤博文の功績

貨幣法の制定(貨幣社会の確立)
伊藤博文は、明治政府のもと、1871年に貨幣の基本単位に円を用いることを決定します。
このとき、純金1500mgを1円(すなわち金平価1500mg)とする 金本位制の導入が試みられ、20円、10円、5円、2円、1円の我が国初の洋式本位金貨が鋳造、発行されるに至りました。
この量目は、米国訪問中の伊藤博文が建言したものであり、当時の国際貨幣制度確立案として米国下院に提案中だった1ドル金貨の金純分と同等のものでした。

鉄道開通への尽力
1869年明治2年に伊藤博文と大隈重信は、鉄道建設計画を打ち出しましたが、当初は、国民や政府内部から借金だらけの財政で鉄道建設などに使っている余裕はないと猛烈な反対を受けてしまいます。
その後、用地買収という大きな壁もありましたが、品川の南にある「御殿山」を切り開いた土を使って埋め立て、海上に線路(海中築堤)を通すという起死回生のアイデアで切り抜けることに成功。
不可能に近い用地買収交渉と工事費用の大幅削減という一挙両得の方法でした。
ここに、全長僅か29km《新橋〜横浜間》のうち10kmが海の上(50m沖合)を走るという、世界でも例を見ない鉄道が開通したのです。

 

3.伊藤博文暗殺事件の概要

1909年10月14日、伊藤博文は満州視察という名目で外遊に向かいますが、真の目的は哈爾濱(ハルビン)でロシアのココフツェフ蔵相らと会談するためであり、その会談内容は日本の韓国併合と満洲鉄道問題について話し合われる予定でした。
10月18日に大連に着いた伊藤は、欧米諸国や清国が合同で主催する歓迎会に出席。10月20日には、大連から旅順に移動します。
伊藤を乗せた特別列車は、予定通りに10月26日午前9時に哈爾濱駅に到着しました。
哈爾濱駅にはロシアの外相や蔵相、陸軍相など、各国外交団が出迎えに並んでおり、たいへんな賑わいだったようです。
その賑わいの中、ロシア軍後方から近づいた斬髪洋装の青年が伊藤に向かって拳銃を数発発射。
4メートルの至近距離から銃弾を浴びた伊藤はその場に倒れ、直ちに停車中の貴賓車に運び込まれ救急処置を施されたものの、間もなく死亡が確認されました。
取り押さえられたのが安重根であり、その際に「コレヤ・ウラー(ロシア語で万歳の意味)」と3回叫んだとされています。

 

4.真犯人は安重根ではなかった? 暗殺事件の真相

実は、安重根は犯人ではないという説が根強くあります。
というのも、銃撃を受けた後、伊藤博文を病院で処置した際に不可解な点が発見されたのです。
伊藤博文の体の中から見つかった弾丸は、安重根のブローニング7連発拳銃用のものではなく、フランスの騎馬隊が使用するカービン銃用の弾丸でした。
また、弾痕の向きが安重根のものであれば、上向きになっているはずですが、下向きに穴が空いていました。
このことから、駅の2階の食堂あたりから狙撃されたと予測できます。
事件に関わった25名が容疑者とされていましたたが、安重根の他25名は全員「韓民会」というロシア特務機関の影響下にある組織だったのです。
つまり、安重根を犯人に仕立て上げて、外交的にも内政的にも幕引きしたかったのだというシナリオが浮かび上がります。
では、なぜロシアの特務機関が伊藤博文を暗殺したのでしょうか?
それは、伊藤博文は、日露戦争前にロシアと協商を結ぼうとしたにもかかわらず、日英同盟がその前に結ばれてしまいました。そのため、日露戦争開戦が予想よりも早まり、結果としてロシアは敗北します。
そのときの対ロシア謀略の中心人物が伊藤博文であるとロシア側が判断して、裏切り者として復讐したというのがこの説です。

 

5.韓国と伊藤博文の関係

伊藤博文が暗殺された後、日本と韓国の双方からの提案で韓国併合の話が持ち上がります。日本政府は、イギリスのスコットランド併合を参考にしながら、韓国との併合を進めました。
そして、1910年(明治43年)に日韓併合条約が締結となります。
しかし、当時、伊藤博文は韓国併合に反対の立場をとっています。
一番の理由とされているのは、当時は日本が日露戦争に勝利したものの、経済面や軍事面でかなり厳しい状態だったからです。
韓国はもっと経済的に厳しい局面であったため、「抱え込む余地がない」という判断をしたのです。
しかし、韓国を訪れた新渡戸稲造が、韓国統監だった伊藤博文に面会した際に、伊藤博文は、

「君、朝鮮人はえらいよ。
この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本よりはるか以上であった時代もある。
この民族にしてこれしきの国をみずから経営できない理由はない。
才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。
しかるに今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。
国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない。」
(新渡戸稲造『偉人群像』)

とし、伊藤博文は、朝鮮人の資質を高く評価し、朝鮮人に期待していたようです。
そうしたなかで、将来的には朝鮮人が自ら国をおさめることを期待していました。
ただ、併合に反対していた伊藤博文が暗殺されたため、一気に併合賛成派の勢いが増し、1910年に韓国併合に至ってしまいます。
韓国人からみた博文に対する評価は、”当時の韓国政府は瀕死の破錠寸前の状態であり、伊藤博文は、インフラ整備に尽力してくれた”という好意的なものでした。
また、当時の韓国皇帝も博文が暗殺された後、彼のことを「韓国の慈父」と述べて、高く評価していたのです。

 

6.伊藤博文の名言

「大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ」
一番怖いのは、一見は偉そうに見えない人である。
いかにも強そうに見えても、言動に余裕がなくて面白味もない人間は大したことはできないのである。
「いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ」
留学を控えた次男に与えた訓戒の一節。
「たとえここで学問をして業が成っても、自分の生国が亡びては何の為になるか」
自藩である長州藩が連合艦隊に攻撃されていることを留学先の英国で知り、志半ばでの帰国を決断したときの言葉。

 

7.オススメする動画

「歴史秘話ヒストリア 2015年1月7日 150107 伊藤博文と井上馨の大冒険」
https://www.youtube.com/watch?v=qN8VkDfqE8g
明治維新以前の若かりし頃の博文について詳しく触れています。

「当時の伊藤博文に対する世界の評価」
https://www.youtube.com/watch?v=d_VXHjIqQE8
スクロールにて、韓国併合直前の政治背景を伺えます。

 

8.本記事の用語補足(ふりがな)

  • 周防国(すおうのくに)
  • 木戸孝允(きどたかよし)
  • 高杉晋作(たかすぎしんさく)
  • 久坂玄瑞(くさかげんずい)
  • 公武合体論(こうぶがったいろん)
  • 長井雅楽(ながいうた)
  • 安重根(あん じゅうこん/アン・ジュングン)
  • 大隈重信(おおくましげのぶ)

 

あとがき

不平等条約を改正するためには憲法が必須という時代の要請に、実質的な憲法規範の確立で応えようとした伊藤博文。憲法政治の実現に己の生涯をかけ、政治家としても、その立場は帝国憲法と共にありました。

以上、
「伊藤博文 旧1000円札肖像画人物の偉大すぎる功績、名言」でした。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。