五千円札の肖像画に選ばれた新渡戸稲造の功績、人物像

今日に至るまで、日本の紙幣は何度もそのデザインを変更してきました。
さまざまな著名人、政治家、文化人が肖像画に選ばれ、私たちの財布をにぎやかに、また恋しい思いにさせてくれました。
多くの肖像画人物が、どういった功績のある人なのか割と覚えているものですが、この方については何を成した人なのか、あまり詳しく知らない方が多いのではないでしょうか?

今回は、新渡戸稲造の功績、生い立ちについて触れていきたいと思います。


五千円札の肖像画に選ばれた新渡戸稲造の功績、人物像

 

1.新渡戸稲造の業績、功績概要

業績、功績
新渡戸稲造の成した業績は多々ありますが、大きくまとめると3つに分けられます。

  1. 教育者としての多くの実績
  2. 著書『武士道』を出版、思想家として活躍
  3. 国際連盟事務次長を務め、平和に尽力

正直、他の肖像画人物に比べて誰もが知っているような代表的著作や、政治的功績はありません。しかし、彼は他の肖像画に選ばれた人物に引けを取らないほど、本当に尊敬に値する人物だったのです。

 

2.教育者としての実績

教育者 実績
新渡戸稲造は多くの学校で教授、学長を務めています。
以下、時系列に沿っての一覧です。
1891年 札幌農学校(現・北海道大学)教授
1903年 京都帝国大学(現・京都大学)教授
1906年 第一高等学校長(現・東京大学教養学部及び、千葉大学医学部、薬学部の前身)に就任。東京帝国大学(現・東京大学)農科大学教授兼任
1916年 東京植民貿易語学校(現・保善高等学校)校長に就任
1917年 拓殖大学学監に就任
1918年 東京女子大学初代学長に就任
1928年 東京女子経済専門学校(現・新渡戸文化短期大学)初代校長に就任
1929年 拓殖大学名誉教授に就任
他にも、津田梅子の津田塾(現・津田塾大学)でも顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれたそうです。

また、農学の普及にも尽力しており、教育者として優秀な人物を輩出するだけでなく、国内外の農業においても多くの功績を残しました。

 

3.思想家としても活躍、著書『武士道』とは?

武士道
新渡戸稲造の代表作とされる『武士道』は、外国人に日本のことを理解させたいという願いから、1899年(明治32年)に英語で出版されました。

その中で、武士道の背景に、神道の自然崇拝や運命に委ねるという仏教の感覚が流れていることを明かしました。その中で、「論語読みの論語知らず」といわれるのと同様、武士道は「知識」を目的とするのではなく、「叡智獲得の手段」とし、武士道はただ実践のみを求め、知識が行動として現れることで評価されると解説しています。
そして、武士道を形作る「義」「勇」「仁」「惻隠の心」「礼」「誠」「名誉」「忠義」などの章に分けて、その意義を説いています。
具体的には、武士の教育や訓練、高貴なる義務として課せられる忍耐や我慢、切腹や敵討(かたきうち)の制度などを取り上げています。

この『武士道』は欧米で読まれ、英語だけでなく、ポーランド、ドイツ、ノルウェー、スペイン、ロシア、イタリアなど、多くの国の言語に翻訳されてベストセラーになりました。つまり、近代以降の世界各国が認識する、日本人像「サムライ」に大きく影響を与えたのです。

 

4.国際連盟事務次長を務め、世界平和に力を注ぐ

国連
1920年の国際連盟設立に際し、教育者であり『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長のひとりに選ばれました。
人格、実績、知名度ともに優れていた新渡戸稲造が選ばれたのは、彼の実績を考えれば不思議ではないように思います。
事務次長としては、1921年、バルト海のオーランド諸島(バルト海、ボスニア湾の入り口に位置する6,500を超える島々からなり、現在はフィンランド自治領)の帰属問題などに尽力しました。

その後、1926年、7年間務めた事務次長を退任しましたが、「国際連盟には、稲造ほど優れた人物はいない。ジュネーブの星である」とまで言わしめたそうです。

 

5.新渡戸稲造の人物像

人物像

  • 生誕:1862年9月1日(月曜日)
  • 没日:1932年10月15日(土曜日)
  • 出生地:陸奥国岩手郡(岩手県盛岡市)

若かりし頃の稲造は血気盛んだったようで、札幌農学校入学直後は、教授と論争になると熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家)というあだ名を付けられていたようです。
しかし、キリスト教に感銘を受け、没頭していきました。それからは、学校で喧嘩が発生した際に仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんなことより聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変わっていきました。そして、その時に培われた気質は、最後まで変わりませんでした。

稲造の晩年当時(1932年)、日本は軍国主義思想が強まっていきました。
そんな中、「わが国を滅ぼすものは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」との発言が新聞紙上に取り上げられてしまいます。それによって軍部や右翼や軍部に迎合していた新聞などのマスメディアから激しい非難を買います。多くの友人や弟子たちも、新渡戸の元を去ってしまいました。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えますが、満洲国建国と時期が重なったこともあり「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解を得ることはできませんでした。
この時の稲造の心中は想像するに難くないですね。
翌年(1932年)、日本が国際連盟脱退を表明。この年の秋、カナダで行われた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席します。会議では体調の優れない中で日本側代表としての演説を成功させますが、その一ヶ月後病に倒れ、10月15日、カナダのビクトリアで 71歳の生涯を閉じました。

教育者として、あまたの優れた実績を重ね、日本の精神構造を海外にわかりやすく紹介し、平和を望み、平和のために尽力した新渡戸稲造。
日本においては、知名度でインパクトに欠ける印象がありますが、その功績は非常に大きいことを知って頂けたら幸いです。

現在、新渡戸稲造5千円札は発行していませんが、彼の業績を折に触れて思い出し、感謝の意を表したいですね。

以上、
「五千円札の肖像画に選ばれた新渡戸稲造の功績、人物像」でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。