女流作家のパイオニア 樋口一葉

樋口一葉 筑摩樋口一葉は頑固な女でした。初恋の人を吹っ切り、新しい舞台へ進むのに4年もの歳月を要しました。現代では「恋愛ベタ」の部類です。しかし、感受性の塊であり、短命の中でも覚えてきたものを自身で咀嚼し、晩年、マグマの如く大爆発を起こします。自己のムーブメントの中で夭折した彼女の最終章を見届けて下さい。

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1.「樋口一葉と半井桃水・初恋を自覚した少女のあらすじ」

作家志望者・樋口一葉は、たまたま知人に作家の知り合いがいる…という文言を聞いただけで、男性への耐性ゼロと断言して差し支えない状態にも関わらず、矢も楯もたまらなくなり、半井桃水(なからいとうすい)宅を訪ね、切実に「弟子にして欲しい」旨を訴求します。一葉の真摯な姿勢に打たれた半井は、一葉の希望通り彼女を弟子にし、師弟二人三脚で作家デビューを目指す日々が始まりました。明治25年(1892年)3月23日。同人誌『武蔵野』にて、ついに樋口一葉は処女作『闇桜(やみざくら)』を発表。一葉は作家としての第一歩を確実に踏み出しました。

一方、一葉の心には「かっこよくて笑顔がとても素敵。小さい子どもなら、すぐあなたになつくでしょう。背もとても高いし私、好きかも…」と恋心が芽生え、東京に大雪が降った日「今日は泊まっていきなよ」という言葉を投げかけられ、感情がヒートアップ。想いを断ち切るように人力車に乗り、半井の家を後にしました。ここではまず、その後、半井と一葉がどういう関係に至ったのかを詳らかにして参りましょう。


 

2.「情念のおんな・一葉、初恋を四年間引きずり苦悩する」

一葉と半井の危なっかしい噂話は、女の園「歌塾・萩の舎」を震源に広がって行きました。曰く「半井という男は、女に対して非常にだらしない男であり、隠し子も存在する」。実はこの噂を流したのは、一葉に半井の存在を教えたK子で、K子自体そもそも半井に恋心を抱いており、急接近する一葉と半井の関係を邪魔する魂胆があったといわれています。とまれ噂は醜聞に悪化、また歌塾経営者の中島歌子から「半井はあなたのことを妻だと吹聴して歩いてるわよ」という寝耳に水を浴びせられて、一葉は半井と絶交しました。

その時の心象を表した一葉の歌は「哀に悲しく涙さえこぼれぬ 我ながら心よはしや」(引用元=「樋口一葉と十三人の男たち」)とあります。しかしその後、数年に渡り、お互いに何やかやの理由付けをして逢う関係は、未練たらしくズルズルと続いてしまいます。半井はともかく、一葉にとってそれほど初恋の相手・半井へのときめきは、しぼみ得なかったのでしょう。やがて時を経て、この恋に苦悩し続けた一葉が半井を吹っ切るには、四年の歳月がかかりました。最終的に美しい思い出として昇華させ、互いに気のおけない友人としての交流に変化していくのです。


 

3.「ライバル・田辺花圃との和解とメジャーデビュー」

半井桃水という師匠を失った一葉でしたが、間髪入れず歌塾時代の宿命のライバル・田辺花圃(たなべかほ)が珍しく樋口家の扉を叩きます。そして花圃自身も執筆していた日本最古の一流商業文芸誌『都の花』での執筆を勧めました。幸田露伴(こうだろはん)、尾崎紅葉、田山花袋(たやまかたい)など、文学通ならいま聞いてもそうそうたるビッグネームの前に、垂涎の的となるに違いない一流誌での執筆依頼を喜ばぬ樋口一葉ではありません。女同士の交際というのは、何分男には理解できないところがありますが、ともかくライバル・田辺花圃に塩を送ってもらう形で、一葉のメジャーデビューが決定しました。

樋口一葉はその時点での全力を振り絞って、明治25年「仲のよい芸術家兄妹に対し、詐欺を働いた昔の仲間への怒りが炸裂する」という展開の『うもれ木』を発表します。評論家であり随筆家の平田禿木(ひらたとくぼく)は、新雑誌『文学界』を上司と創刊準備中で、『うもれ木』を読み「着想も独創的で非凡かつ鋭利」、「これが本当に婦人が書いたものなのか!?」と文学界関係者は驚嘆します。


 

4.「プロにはなったものの…これでは一家を扶養出来ない!」

『うもれ木』でメジャーデビューを果たした一葉でしたが、若い作家、あるいはあまり売れていない作家が陥るスパイラルで呻吟(しんぎん=苦しんでうめくこと)せざるを得ない状態に陥っていきます。そのスパイラルとは、現代で自営業を営む人なら理解できる性質のものだと思いますが、サラリーマンとは違い毎月間違いなく執筆依頼がくるのならば、何とか家計を支えて行けるメドが立つ知れませんが、出版社はそんな作家の事情を斟酌(しんしゃく=相手の事情や心情をくみとること。また、くみとって手加減すること)するような優しさは昔も今も持ち合わせていません。

その上、樋口家には亡き父が残した借金も残存し、士族であるがゆえに倹約できない支払いもありました。「私は小説を量産できる、でも確実に仕事が来るという前提であればまだマシだが、依頼が来るのか、来ないのか、単価はどれくらいなのか…また半井さんと違って私の書く文章は芸術だと信じています、間違っても大衆に媚びて売るためだけの文章は書かない!」。作家の卵、樋口一葉の心は揺れに揺れます。


 

5.「生活のために、吉原界隈で荒物屋を出店するも…」

女戸主として決断の時が迫ってきていました。今後も出版社からオーダーが来るのを待ち焦がれ、文筆一本で生計を叩き出せるよう待ち続けるのか…、あるいは生活のためと割り切り商売でもやって時期を見るのか…。考えた末、一葉は一旦、文壇からは撤退し、商売に賭けることを決断しました。

1893年(明治26年)7月、樋口一葉21歳、昔懐かしい業種ですが、家族三人で【荒物屋】をやって生計を立てることに決めたのです。荒物屋とは家庭用の雑貨類を売る商売。居住地も本郷から、華の吉原と隣接する細民街・下谷区竜泉寺町の家に越し、貧乏ながらかなり金策に無理をして開店にこぎ着けます。しかし本質的には芸術家である一葉にとって、日本一の大売春街の隣接地で安っぽい雑貨を売りさばく仕事を選択せざるを得なかった事実は、プライドをズタズタに切り裂かれるものでした。荒物屋にもなりきれず右往左往する日々の中、かえって一葉の士族としてのプライドがお客さんの鼻につき、最終的には子ども相手の駄菓子屋へと堕していくのです。


 

6.「一葉復活の立役者、平田禿木(ひらたとくぼく)」

金、金、金、金…、樋口家を苦しめる貧乏生活からのし上がって、普通の生活が出来るようになる目途は月日が流れるごとに難しくなっていきました。女というのはしたたかなもので、生き続けるために親戚、友人、知人、ありとあらゆる人に借金し、一体誰からどれくらい借りたかも判らないくらい莫大な借金を累積させ、踏み倒していきました。薄利多売の荒物屋あるいは駄菓子屋を一時は真剣に成功させようと誓った樋口家も、1894年(明治27年)5月、わずか10ヶ月で竜泉寺町の店を畳まざるを得なくなります。

と同時にこの頃、先に記した樋口一葉の動向を追い続けていた平田禿木は、一葉に対して督促状まで出して、原稿執筆を催促し始めました。一葉は平田の督促に意を決し、再び文壇に復活。『文学界』に中篇『花ごもり』を執筆し、ホコリとカビ臭い細民街・竜泉寺町を脱出して、再び本郷に帰ってきました。生前の平田禿木は「樋口一葉を救った事実」を「私たち『文学界』が樋口の進路を助けたとするならば、それは我々の誇りだ」と述懐しています。


 

7.「日本文学史上、燦然と輝く『樋口一葉・奇跡の14ヶ月』」

父・則義が非業の死を遂げてからというもの、士族の女戸主という大変なポジションに17歳で祭り上げられ、衣食住すべてに事欠きながら、何とか母、そして妹を扶養しようと貧のどん底で戦い続けた樋口一葉の歴史も最終局面を迎えつつありました。

女流作家・樋口一葉の名が日本中に知れ渡り始め、一躍時の人となり、出すもの出すもの作品は大ヒットを連発、文壇の重鎮たちももろ手を挙げて、一葉の作品や一葉の人となりを大絶賛するに至ります。この大フィーバー状態が「樋口一葉・奇跡の14ヶ月」と後に称されるに至ります。しかし、それと引き換えに、一葉はどんどん健康を害していきます。そして、重度の肺結核を患うに至ってしまいます。元来、栄養失調状態の期間があまりに長く、豊かさを手中にしても今度は執筆依頼に追い回され、そしてほとんど断ることなく、また会心の作品を世に送り出すことを繰り返し…。未だどんな女流作家でも追い越すことができない大きな存在である樋口一葉は、明治29年(1896年)11月23日、疾風怒濤の生涯を終えました。

享年24歳です。

あとがき

日本国現行5,000円紙幣の肖像・樋口一葉の人生をレポートしてきました。時代に翻弄されながら、最後に大勝利を収めた作家としての人生。貧乏故に病弱にならざるを得なかった、そして栄養失調を抱え、一途に生き恋をした一葉の生涯。私も何度か目頭が熱くなるのを覚えました。

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参考資料

  • ちくま日本文学全集「樋口一葉」(筑摩書房)
  • 「BIGLOBE・樋口一葉豆知識」
  • 樋口一葉と十三人の男たち(青春出版社)
  • 「荒物屋探訪」