五千円札の肖像画に選ばれし才女・樋口一葉

樋口一葉・5,000円札(表面)

日本史上初の民間女性肖像・近代文学に咲いた奇跡の華、樋口一葉(ひぐち いちよう)は、2004年(平成16年)11月1日から現行の五千円札として市場に流通し始めました。今年ですでに14年目となります。

お札の肖像画で初めてその存在や名前を知ったという人も多いと思います。24年という短かすぎる人生を駆け抜け、風となった早熟の天才少女伝説を三回に渡ってつまびらかにしましょう。これを知ったら、「え、本当にこんな生き方したの?」と驚いていただけるのではと思っています。

五千円札の肖像画に選ばれし才女・樋口一葉(ひぐち いちよう)を知る

 

樋口一葉の生い立ち

生誕:1872年3月25日(明治5年)
死没:1896年11月23日(明治29年)
生誕地 東京

1.天才女流作家・樋口一葉、親もまた常人には非(あら)ず

樋口一葉(本名・樋口奈津)は明治初期、立憲君主国として天皇陛下を擁し世界にデビューしたばかりの日本で、元は甲斐国(現在の甲州市塩山)の農民であった父母の間に次女として産声を上げました。

一葉が生まれる15年前(1857年、安政4年)、父母は故郷の甲斐国から江戸へ駆け落ちを敢行、熱い愛情を育んでいきます。父・則義は学がある上に能力も高く、母・たきの実家も由緒ある家柄。母方が結婚を許さず、愛し合う二人は故郷という頸木(くびき=自由を束縛するもの)を断ち切り、帝都に身を投じました。そんな情熱的な血統が、後の一葉の『したたかな女』としての生き方を暗示しています。

都に活路を見出した則義は、知己(ちき=知人、知り合い)の幕臣に接近、小使いで取り立てられてから、上手く立ち回り奉行所の同心(どうしん=雑務を司った役職)となり、なんと武士の仲間入り。幕府が崩壊し大政奉還した後も、今度は東京府(現在の東京都)勤めに転身。そんなサクセスストーリーの渦中で、一葉は誕生しました。

 


 

2.駆け落ち農民が「士族」にジャンプアップ! 一葉の生涯に渡るプライドが形成される

父・則義は、経済的に豊かになるため東京府退官後も警視庁に転職、副業にも精を出します。またこの頃、身分を平民から「士族」に引き上げられ、貧しい甲斐国出身の元農民の家族は、四民(士農工商)の頂点・武家筋の地位に登りつめました。

則義が触手を伸ばした副業は、金融と不動産業でした。蓄財にも余念がなく、貧民が多かった当時の帝都では、豊かな部類に入る家庭を構築します。夫婦は駆け落ちしつつ、のし上がったサクセスストーリーに強い誇りを持っていました。その想いは一葉ら子供たちにも伝播され、とりわけ感受性旺盛な少女・一葉には、強烈な矜持(きょうじ=自ら能力あると信じ、人に誇ること)を与えます。

明治9年、樋口家は本郷6丁目の大きな屋敷を購入し転居します。一葉は周囲の女の子が楽しむ手まりなどには全く興味を持たず、読書を愛し英雄伝などを読み漁りました。この本郷の屋敷で文学を吸収した期間こそが、将来の女流作家・樋口一葉の基礎を作ったと言えるでしょう。

 


 

3.一葉の進学を許さなかった、古き時代の母・たき

日本において最低限の義務教育(小学校まで)が根付くのは、1900年(明治33年)。一葉が少女期に学校に通えたのは、余裕ある家庭の子女だったからです。公立学校もありましたが、現代と同様に私塾に人気が集まっていました。

この時期、九星気学を信奉するかのように樋口家は引越しが多く、一葉も転校を繰り返しましたが、最終学歴は明治16年(一葉11歳時)、上野池之端の青海学校小学校高等科第四級を首席で卒業。才女としての頭角をどんどん現しつつあった一葉に対し、「女に学問は必要がない」という母・たきの一存で進学は叶いませんでした。一葉の日記には「死ぬばかり悲しかりしかど学校は止めになりけり」(引用元=「BIGLOBE・樋口一葉豆知識」より)と、とても悔しがっている気持ちが伝わってきます。

ここで彼女の学業が完全に終焉していたら、女流作家の先駆者・樋口一葉の名は今に伝えられていたか、疑問が残ります。父・則義が「和歌」の通信教育における添削授業を一葉に学ばせることで、文学の力量が落ちないよう計らったというエピソードは、とても心温まります。

 


 

4.女性和歌塾の名門「歌塾・萩の舎」と、主宰者中島歌子に就いて

「歌塾・萩の舎」とは、小石川区水道町(現・文京区春日)にあった女性歌人の養成を目的とする私塾であり、一葉の入門時は実績や入門者の高貴さも黄金時代を極めていました。

ここで萩の舎の主宰者、中島歌子(1844年・弘化元年生まれ)を簡単にご紹介しておきます。武蔵国の英雄・太田道灌(おおたどうかん)の重臣の娘として生を受けた中島は、水戸藩士と十代で結婚するも、夫は「天狗党の乱」に巻き込まれ自害。女盛りの21歳で、未亡人となってしまいます。女の再婚が許されなかった時代、一人で生き抜くために江戸派の重鎮・加藤千浪(かとうちなみ)から和歌や書も学び、歌人として一躍名を馳せるようになります。

皇族梨本宮妃や華族、上流階級夫人や令嬢など、コネクションを駆使して門下生を多く集め、特権階級のサロンとも言える空間を構築、内容も他の追随を許さない高水準なものに仕上げていきました。一葉はそこでメキメキと実力を上げ、中島から「私の後継者」と見込まれるに至るのです。

 


 

5.実力は嘘をつかない、樋口一葉伝説の始まり

一葉にとって初披露の歌会に居並んだ、他の高貴な詠み人である女性たちは60人を超えていました。皆々、身分に応じてドレスアップし、晴れ着を新調。士族とはいえ農民からのし上がったばかりの下級武士子女・樋口一葉は、いかに自分が貧しく、身分も卑しいか、晴れ着など夢のまた夢であるという現実を思い知らされ、乙女心を強く痛めたと云います。その日の題詠は「月前の柳」。
古着の八丈を纏った一葉は、意を決して堂々と詠み上げました。

「打なびくやなぎを見れバのどかなるおぼろ月夜も風ハ有けり」(引用元=「樋口一葉と十三人の男たち」より)

そして全ての歌が披露された後、ドラマが起きます。最高点を叩き出したのは、身分が低くみすぼらしい格好の樋口一葉、その人であったのです! 皇族でも華族でもない農民からのし上がったばかりの下級武士子女が、実力で身分の差を蹴散らした瞬間。何とエキサイティング! 後に文壇で「奇跡の一葉」と称される天才少女の、面目躍如といったところではないでしょうか。このシーン、映画になったらとてもカッコイイと思うのは私だけではないはずです。

 


 

6.生涯にわたって無宗教だった樋口一葉の精神性

ここまで、誕生から歌人としてポジションを得はじめるまでの、早熟の天才女子・樋口一葉の半生を紹介してきました。ここでは、一葉という人間の精神性に注目したいと思います。作家になり大成する人は、芥川龍之介や太宰治のようなイエス=キリストを心の支えにした者や、逆にこの二人を著作「不良少年とキリスト」で徹底的に糾弾した坂口安吾のような無神論者、はたまた国家神道の復活を説き、大衆の面前で割腹自殺し果てた三島由紀夫など、さまざまなタイプがあります。心のひだに至るまで精神力をフル回転させなければならない職業ゆえに、どのような心条をもって筆を進めているのかは、避けて通れない観察項目と言えましょう。

では、実際に樋口一葉は何か信仰を持っていたか否か…といえば、お祭りや正月、お彼岸といった一般慣習的な行事は大好きでしたが、特定の信仰を持つには至らなかったとされています。そう、非常に現代的というか、今の国民の多くが位置するポジションにあった人だと言うことができるでしょう。

 


 

7.樋口家に漂い始めた暗雲と、一葉の命を縮めた「女戸主」としての相続

1887年から89年(明治21年~23年)は、樋口家にとって厄が大暴れするごとき数年となりました。87年の大晦日前に、長男・泉太郎が気管支カタル(現在の研究では肺結核であったようだと見られている)で23歳という若さで逝ってしまいます。長女はとうの昔に嫁いでいたし、次男は分籍(ぶんせき=今まで親の戸籍に入っている子どもが、親の戸籍から抜けて新しく戸籍を得ること)してしまっていたため、順序として父・則義が後見人となり、なんと16歳の一葉が「女戸主(おんなこしゅ)」とならざるを得ない展開になりました。それでも父・則義は健在であり、戸籍上のことに過ぎないと家族はたかをくくっていました。

その年の6月、則義はほとんどの財産を注ぎ込んで新事業の設立という大博打に出ます。しかし、結果は想像だにしなかった大失敗。財産どころか大借金と関係者らの罵声を浴びて失意のどん底に沈み、原因不明の病に倒れ、その二ヶ月後に急逝。則義・享年59歳、歌を詠むだけしか能がしかない17歳の少女が、借金まみれの家の大黒柱になってしまうことに…。

あとがき

最後列、左から三人目が一葉

最後列、左から三人目が一葉。

まさに、疾風怒濤<しっぷうどとう>という言葉がふさわしく、激しい風と荒れ狂う波のような大激動を生きた女性こそ、一葉なのです。樋口一葉の第一回はここまでですが、一葉とはこんなに凄まじい環境を生きたのかと圧倒されつつも、興味をもっていただけたのではないでしょうか。

以上、五千円札の肖像画に選ばれし才女・樋口一葉のレポートでした。
お読み頂きありがとうございました。

参考資料

⇒「BIGLOBE・樋口一葉豆知識」
⇒「樋口一葉と十三人の男たち(監修・木谷喜美枝)青春出版社