野口英世とはこんな人! 千円札に選ばれた理由と功績

そこに描かれた肖像画を意識することもなく、何気なく手にして使っている紙幣。
そこに描かれている人物は、一体どういう人物なのでしょう?
ただ使うだけでなく、その人物の人となりを知れば、お金に愛着が湧くのではないでしょうか?

本記事では、千円札に描かれている野口英世について触れてみたいと思います。

野口英世とはこんな人! 千円札に選ばれた理由と功績

 

1.誕生〜幼少期(貧困、障害、いじめなど、苦難の日々)

  • 生誕:1876年11月9日(木曜日)
  • 没日:1928年5月21日(月曜日)
  • 出生地:福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)

野口英世は、1876年(明治9年)11月9日に、福島県の農村で生まれました。当時は清作と名付けられ、22歳の時に「英世」に改名しました。
1歳の時に囲炉裏に転落し、左手に大やけどを負います。
その際、左手の指が指同士が癒着してしまい、障害を負うこととなり、これでは農作業が困難だからと、母親の「シカ」より学問で身を立てるように諭されます。
当時、小学校に通えるのは裕福な子ばかりで、貧しいのは英世だけ。
そういった事情や左手の障害のこともあり、学校ではいじめられることも多く、しばらくは我慢していた英世でしたが、ついには学校をさぼるようになります。
そして、さぼっている姿を母親に見つかってしまうのですが、母親は叱ることはせず、「障害を負わせたのは私の不注意で申し訳ない。でもここで勉学をやめてしまうと、今までの努力が水の泡になってしまう」「お前の勉強をする姿を見るのが、私の楽しみだ」と言われ、これを機に英世は今までにもまして勉学に励むようになってゆきます。
また、左手に障害を負っていたとはいえ、負けん気が強く、相撲が得意だったようです。

その後は母親の導きや本人の努力もあり、優秀な成績を修めることとなります。
また、当時書いた自分の左手の障害を嘆く作文が、通っていた猪苗代高等小学校の教頭「小林栄」や友人達の心を打ち、手の手術をするための募金が始められます。
必要な資金が集められ、アメリカ帰りの医師「渡部鼎」の下で手術を受けました。
その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになり、感激した英世は医師を目指すこととなりました。

 

2.少年期〜改名まで

1893年(明治26年)

猪苗代高等小学校を卒業後、手術をしてくれた渡部の経営する病院に住み込みで働くことになった英世は、3年半にわたって医学の基礎を学びます。
また、この時期に渡部の友人であった、東京都港区の高山高等歯科医学院(現在の東京歯科大学)の講師「血脇守之助」と知り合います。血脇は英世に惚れ込み、後に非常に献身的な協力者となるのです。
会陽医院では医学のほかに、英語・ドイツ語・フランス語の勉強をしていましたが、並外れた集中力を発揮し、1つの言語の原書を3ヶ月で読めるようになるほど、短期間で語学をマスターしていったそうです。英世は、一度辞書を引いた語彙は全て覚え、二度と同じ語彙を引くことはなかったと言われています。

1896年(明治29年)

この年、英世は上京します。
上京するにあたり、猪苗代時代に世話になった小林先生に40円(当時の1円は2万円ほどの価値)もの大金を借ります。そして、医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記)に合格するも、放蕩により2ヶ月で使い切ってしまい、下宿先を立ち退くことになりました。そんな英世を救ったのは血脇でした。彼の一存により、後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院の寄宿舎に泊まり込みます。

後期試験(臨床試験)では打診が必須でしたが、英世の左手では触診が困難であったため、血脇の計らいで帝国大学外科学教授・近藤次繁による無償再手術を受けることになります。これによて打診が可能となり、後期試験に合格。21歳で医師免許を取得します。当時、超難関と言われていた医師免許の試験に1度で合格するあたりも、英世の才能を表すものでしょう。

しかし、開業資金がなく、また左手には不自由が残って触診にも苦労しました。そのため、開業医ではなく研究者の道を目指すことになるのです。

1898年(明治31年)

英世は順天堂医院を経て、北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医学研究所)に勤め始めました。そこでは直接研究には携わらなかったものの、高い語学力を活かし、通訳や研究所外の人間との交渉を担当していました。

この年、「清作」から「英世」へ改名します。

 

3.改名の理由と、強引かつユニークな手段

改名を考えるに至った理由は、知人から勧められて読んだ坪内逍遥の小説「当世書生気質」がきっかけでした。その登場人物に「野々口精作」という名の人物がおり、言葉を思うままに操り、借金を重ねつつ自堕落な生活を送るキャラクターと自身の名前が近く、また、自身も借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があったことからショックを受け、そのモデルなのでは?と勘違いされる可能性を心配したのです。

英世は郷里の小林に相談の結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられます。しかし、戸籍名の変更は法的に困難でした。
そこで、野口は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込み、自分の生家の近所の別の野口家へ養子に入ってもらい、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段で、戸籍名の改名に成功しました。

強引だけれど憎めない英世の人間らしさが垣間見えるエピソードです。

 

4.海外へ羽ばたく

1899年(明治32年)

伝染病研究所での勤務、横浜港検疫所検疫補佐官を経て、英世は清国でのペスト対策班に選ばれます。
しかし、支度金96円(当時1円は2万円程の価値)をまたも放蕩により使い切ってしまいます。そして、ここでまたも血脇の援助を受け、無事に渡航。
翌年5月、アメリカへの留学希望の手紙を出しますが、当時相当な高給だったにも関わらず、またしても、放蕩により渡航費用を用意できず断念します。

しかし、英世は1900年にアメリカへ渡航します。
その費用には、当時箱根で知り合った斉藤文雄の姪、斉藤ます子と婚約を取り付け、持参金を充てたのです。
しかし、その後、ます子と結婚することはありませんでした。結婚持参金は300円。当時はとても大金だったというのは言わずもがな。
その300円は5年後、英世ではなく血脇が用意し、返済するのです。

学問、研究に関しては大変に優れていましたが、他の面ではなかなかの、いや、相当のダメ男だったようですね。

 

5.渡航後の功績

アメリカへ渡った英世は北里の紹介により、フレクスナーのもとでペンシルベニア大学医学部で助手となります。蛇毒の研究というテーマを与えられ、その成果を論文にまとめます。この論文は、フレクスナーの上司、サイラス・ミッチェル博士からも絶賛され、ミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなったのです。

1904年(明治33年)

デンマークはコペンハーゲンでの留学を経て、アメリカのロックフェラー医学研究所に移籍します。

ロックフェラーでの英世は、研究に深く没頭します。
「ナポレオンにできたのだから、私にも必ずできる」と1日3時間しか睡眠をとらなかったそうです。
この様子に「日本人は2日に1度しか眠らなくても済む」と噂が立ちました。

1911年(明治44年)

熱心な研究の甲斐もあり、「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界中に知られることとなります。
英世は梅毒の研究に最も熱心に取り組み、成果を出してきました。
※ただし、その後この研究の追試に成功した者は未だいません。現在の見解では、純粋培養の成功は、ほぼ否定されています。

そして、この年アメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚しました。

1913年(大正2年)

英世は、梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明。

1915年(大正4年)

年老いた母に会うため、日本へ帰国。帝国学士院より恩賜賞を受ける。また、この際に、ワイル病スピロヘータを発見した稲田龍吉・井戸泰の研究、伊東徹太のワイル病スピロヘータの純粋培養に関する研究を視察しています、これが後に大きな功績に貢献することになります。

補足:スピロヘータとは、らせん状の糸のような細菌。

1918年(大正7年)

ロックフェラー財団の意向により、当時黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣されます。英世には黄熱の臨床経験はなく、患者の症状がワイル病に酷似していたことから、試験的にワイル病病原体培養法を採用。9日後(この日数については諸説あり)、病原体を特定することに成功し、「レプトスピラ・イクテロイデス」と名付けます。これを基に開発された野口ワクチンによって、南米での黄熱病が収束したとされています。
※しかし、ここでいう黄熱病は実は誤りで、ワイル病であったと思われ、実際の英世の功績は「南米でのワイル病の収束」となっています。

1920年(大正9年)

ペルーを訪問。リマ市滞在4日間で、オロヤ熱およびペルー疣という、2つの風土病の情報を入手。

1926年(大正15年)

ペルー疣とオロヤ熱が同一病原であることは、1885年にペルーの医学生、ダニエル・アルシデス・カリオンが証明していましたが、アメリカの一部学会が否定していました。英世は、これらが同じバルトネラ症であることを発見、証明し、論争に終止符を打ちます。

同年、南アフリカ出身の医学者マックス・タイラーらが、黄熱ウィルスの単離に成功。黄熱病についての野口説(レプトスピラ・イクテロイデスが病原であること)を反証します。この前年、アフリカのセネガルで発生した黄熱病に、野口ワクチンの効果がなく、イクテロイデスが発見されない旨の報告もあったため、英世の説に対し逆風が強くなっていました。もともと英世の説が発表された当時から、黄熱病はウイルス説が主流で、それとかけはなれた内容を主張する英世に対する反発は多かったのですが、タイラーらが証明した実験は、改めて英世の説が誤りであることを示したのです。

 

6.晩年の英世

1927年(昭和2年)

この年の10月、アフリカへ黄熱病研究のため出張。11月、イギリス領ガーナのアクラに到着、野口説に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を嫌がる英世に、イギリス植民局医学研究所病理学者ウイリアム・A・ヤング博士がロックフェラー組織外の研究施設を貸与し研究を開始します。
しかし、現地で黄熱病が収束し、ラゴス本部から病原体を含む血液を提供されず、病原体が入手できないため研究が進められない状況が続きます。
12月26日、ウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したとの報告を受け血液を採取に行きます。

1928年(昭和3年)

1月2日、英世自身が軽い黄熱病と診断され入院するも、1週間後には退院し、研究を再開。
※この同時期に診断された別の医師は、アメーバ赤痢と診断されており、この時、じつは黄熱病ではなかったと思われます

3月末、フレクスナー宛にレプトスピラ・イクテロイデスとは異なる黄熱病病原体をほぼ特定できた旨の電報を出します。そして、秘書への手紙に、濾過性微生物(ウィルス)が病原であると言及し、それまでの自説を否定しました。

5月11日、ラゴスのロックフェラー研究所本部に行った際、体調が悪化します。5月13日、黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院。見舞いに来たヤング博士に(一度罹ったら二度と罹らないはずの黄熱病に再度罹ったのを不思議に思い)「どうも私には分からない」と発言。この言葉が最後の言葉とされています。
5月21日、病室にて死亡。51年の生涯を閉じます。死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、死因が黄熱病であることが確認されました。(ヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡)

6月15日、アメリカ・ニューヨークの、ウッドローン墓地に埋葬される。

 

福島県の貧しい農家に生まれ、アメリカNYの墓に眠る、という何ともアメリカンドリーム的なロマンがありますね。
野口英世は、学問、医学にとても大きな貢献をする一方で、金銭感覚に疎く、借金の天才とも揶揄されていました。
見方によっては大きく評価が分かれる、振り幅の大きな人物で、それだけエピソードに富む魅力的な人物です。

 

7.野口英世が千円札に選ばれた理由?

今まで、日本銀行券の肖像として選択したことのなかった科学者を採用することになり、学校の教科書にも登場するなど、知名度の高い文化人の中から英世が採用されました。
また、傾向として、ヒゲやシワなど、デザインとして偽装されにくいルックスも、判断の材料になると言われています。
さらに、一目見て覚えやすい顔というのも重要な判断基準のようです。

 

あとがき

ここまでの長文をお読み下さり、ありがとうございます。

本記事では、野口英世の功績、生い立ちをご紹介しましたが、彼の人生があまりにも濃厚で、その魅力を再確認することができました。
今後も、英世のエピソードや、性格などを掘り下げていきたいと思います。

以上、「野口英世とはこんな人!千円札に選ばれた理由と功績」でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。