藤原鎌足 旧200円紙幣肖像画人物の偉大なる足跡

藤原鎌足 旧20,100,200円紙幣肖像画人物の偉大なる足跡
平安時代にはこの世のすべてをも握ると言われていた名族「藤原氏」。
その始祖たる藤原鎌足は、なんと4度も旧札の肖像画に用いられています。
鎌足の事跡とは、彼の生きた時代とは、一体どのようなものだったのでしょうか。


藤原鎌足 旧200円紙幣肖像画人物の偉大なる足跡

 

1.藤原鎌足の来歴

当時の東アジアは、中国を支配していた唐が朝鮮半島の国・高句麗を攻めたことで、国内統一のため集権体制を確立しようという機運が高まっていました。
日本でも、それに応じて事件が起こります。蘇我氏中心の集権体制を目指した蘇我入鹿(そがのいるか)が、聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼしたのです。
これに危機感を抱いた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、入鹿を暗殺。入鹿の父・蝦夷(えみし)をも攻め、自殺に追い込みました。
この乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれる出来事で、中大兄皇子の片腕となって活躍したのが、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)。
事件の後、中大兄皇子は晴れて皇太子となり、鎌足もまた新政権の中で内臣(うちつおみ)という職を与えられました。鎌足は今でいう、軍事指揮官や外交責任者の役割を果たしていたようです。
中大兄皇子が即位し天智天皇となった後も、鎌足は精力的に働きました。
周囲の高官が失脚していく中、高位へと登りつめたことから、天皇からの信頼も厚かったのでしょう。
死の直前には、天智天皇から「藤原」の姓を与えられています。(それまでの鎌足は、「中臣鎌足」と名乗っていた)

 

2.大化の改新とは

大化の改新とは、蘇我氏と王家の争いと、改新の詔(かいしんのみことのり)の発表まで、一連の出来事を指した言葉です。
藤原鎌足はこの歴史的ビッグイベントの立役者だったと言われています。
それでは、改新の詔とはいったいどういう内容だったのでしょうか? 見ていきましょう。

まず第一条。ここでは「公地公民」が定められています。これは、豪族が私有地や私領民を所有することを廃止したものです。それまでの私地私民制をあらため、国民と土地はすべて天皇、つまり公(おおやけ)のものとしたこの制度によって、律令制は確立されたといわれています。
第二条は、地方行政についてです。国・郡・里といった区分で国土を区画し、それぞれの土地に行政官を置くことを定めました。
第三条は、聞いたことのある方も多いでしょう。ずばり「班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)」です。戸籍をつくり、正確に税を徴収することを目的に定められました。現代の我々も用いている戸籍のルーツは、こんなところにあったんですね。
最後の第四条は、「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」などの統一的な税を新たに設けることを規定した内容です。
このように、大化の改新を経て、日本は豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わり、中央集権国家への道を歩み始めたのです。

 

3.鎌足の詠んだ和歌

古代の日本の人々は、思いを和歌に託すことが多く、中臣鎌足も例外ではありません。
鎌足と和歌の関わりについて、見ていくとしましょう。

  1. 玉くしげ 覆ふをやすみ 開けて行かば 君が名はあれど わが名し惜しも
  2. 玉くしげ 三室の山の さなかずら さ寝ずは遂に 有りかつましじ
  3. われはもや 安見児得たり 皆人の 得難にすとふ 安見児得たり

玉くしげ 覆うをやすみ 開けて行かば
君が名はあれど わが名し惜しも

これは、鎌足の正室・鏡王女(かがみのおおきみ)が鎌足に宛てた歌です。

歌の内容は「夜が明けてから帰るなんて、うわさになってしまう。あなたは構わないかもしれないけれど、私の名に傷がついてしまいます」というような意味です。

実は鏡王女は、中大兄皇子が彼女を鎌足に下賜し、妻になったという経緯があります。

玉くしげ 三室の山の さなかずら
さ寝ずは遂に 有りかつましじ

先ほど妻の歌に対する鎌足の返歌が、こちら。

「三室山のさなかずらの蔦ではないが、どうして共寝をせずに最後まで耐えられるだろうか」という内容です。
もしかしたら、この2つの歌は二人が夫婦になる前に交わされた甘酸っぱいやり取りだったのかもしれませんね。

われはもや 安見児得たり 皆人の
得難にすとふ 安見児得たり

こちらも、鎌足が詠んだとされる歌。

「皆が得難いと言っていた安見児を、私はついに手に入れたぞ!」という喜びの歌です。安見児(やすみこ)というのは、天皇に仕えるため全国各地から集められた女官(采女:うねめ)の名前。

天皇に仕える者の中には彼女たちに恋してしまう者も多くいたのですが、采女は天皇の妻にもなりえる存在だったことから、発覚すれば死をもって償うべしとされていました。
そんな中、鎌足は采女である安見児を得ることを許されたのです。

この歌には、安見児を賜れるほど自分は天皇に信頼されているのだという喜びも込められているのです。

 

4.藤原鎌足の名言、人物像

朝廷の高位に君臨する名族「藤原家」の祖となった藤原鎌足。
彼の遺した言葉としてこんなものが伝わっています。

「大きなる事を謀るには、輔有るには如かず」
大事を成そうとするならば、味方が多いに越したことはないという意味です。
ここでいう、大事とはもちろん「大化の改新」のこと。
鎌足が蘇我氏に立ち向かおうとする中大兄皇子に対し、進言した言葉と言われています。

敵の中からも味方を見つけ出すような、そんな心構えが必要だと皇子に告げた鎌足は、自らの言葉通り、蘇我氏の一族であった蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)を味方に引き入れることに成功。大化の改新の成功に大いに貢献しました。

また、鎌足は晩年にも、その人柄をうかがわせるエピソードがあります。
死の直前、見舞いに来た天智天皇(中大兄皇子)に、白村江の戦いでの失態を「私は軍略で貢献することができませんでした」と嘆き、最期まで国の行く末を憂いていたというのです。
そんな鎌足だからこそ、天皇も大織冠を授け、内大臣に任じるまでの信頼を置いていたのでしょう。

 

5.オススメする動画

【藤原氏誕生】大化の改新と六韜(りくとう)【中臣鎌足】
https://www.youtube.com/watch?v=GEZFT4xvIio
大化の改新において用いられたとされる兵法書「六韜」について触れられています。

『古代日本最大のクーデター』大化の改新1 今夜はヒストリー

バラエティ番組で取り上げられた「大化の改新」。軽妙ではありますが、分かりやすく編集されているので、オススメです。

あとがき

いかがでしたでしょうか?
文武両道に優れ、それでいて情感豊かに歌を詠む人間味も持ち合わせた藤原家の始祖・藤原鎌足。
天皇の信任も厚かった彼の心構えは、現代に生きる我々も学ぶべきところがあると言えそうですね。

以上、
「藤原鎌足 旧200円紙幣肖像画人物の偉大なる足跡」でした。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。